世界恐慌とは?原因、いつ?日本、アメリカの影響

世界恐慌

世界恐慌を知り、全世界同時多発「コロナ感染蔓延」後の世界経済を考える

地球規模で人類は共同体を形成して生活しなければならないように出来ています。

その共同体の「単位」として最も大きく、今もなお維持し続けているのが「国家」という単位になります。

国連には、2020年現在200弱の国や地域が加盟しています。

今回、新型コロナウイルスにより、その国々が一斉に機能不全を起こし、人としての生活が困窮していくという事態が発生しています。

人類は過去様々な惨禍を経験してきました。

詳細は後述しますが、直近での最も大きな惨禍が「世界大恐慌」と呼ばれる世界的経済破綻を経験しました。

この世界大恐慌は、1929年(昭和4年)の出来事で、当時空前絶後の経済破綻であったばかりでなく、現在もなお同規模の経済破綻は発生していないと言われています。

別掲のコラムでも特集しました「リーマンショック」「バブル崩壊」等、その比ではありません。

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背景とする時代が現代とは異なることもあり、単純に大恐慌時代と同じことが起きることはないとしても、やはり歴史を顧みることが無ければ未来予想は不可能だと言われます。

そこで、今回、1929年当時の世界大恐慌を見ることで、現代社会が直面する地球的規模のクライシス(危機)がどのようなものになるかを予想し特集してみたいと思います。

しかし、1929年といえば今から90年以上も前の出来事で、それを実体験として経験され記憶している方々は少ないと思います。

そこで、なぜ世界的大恐慌が起きたのか、その規模はどのようなものだったのか、またその時日本やアメリカを含め諸外国がどうだったのかということをご紹介したいと思います。

世界大恐慌について

世界大恐慌の概要

世界大恐慌は、英語では“Great Depression”と呼ばれ、その震源地はアメリカ合衆国でした。

1929年9月4日(木曜日)のニューヨーク株式市場での株価大暴落に端を発し、全世界へ波及した恐慌を世界大恐慌と呼びます。

その影響は、1930年代後半まで続く長い経済悪化の現象として、現代では歴史的大惨禍として教科書にも明記されているほどになっています。

細かくなりますが、株価の大暴落は1日で終わったわけではなく、この時の発端が9月4日であったとしても、その後10月24日(木曜日)に大暴落、28日(月曜日)、29日(火曜日)に壊滅的な株価暴落がありました。

このことで、この世界大恐慌の発端を指し示す用語として「ブラック〇〇デー」と言われることがありますが、いずれも正しいことになります。

社会環境として重要なファクターは、電話による音声通信技術の発達があります。

電話の急速な進歩により、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸が結ばれ一般民間人に普及したのが世界大恐慌発生直前の1927年になり、僅か2年前の出来事でした。

ラジオについては、大恐慌発生の僅か3年前に日本の八木博士が電波指向性方式のアンテナを開発し特許を取ったばかりでした。

情報通信技術は、人の体で言えば神経系と同じように、良いことも悪いことも即座に全身(世界中)に伝播させる力を持っています。

当時として、飛躍的な発達を遂げた情報通信技術が大恐慌をさらに悪化させたという事実は大きいでしょう。

さらには、第一次世界大戦(1918年~1922年)の戦後スキームがようやく固まりかけていた時代背景も大きかったと考えられます。

世界大恐慌の原因

世界大恐慌は、1929年9月に発生したニューヨーク証券取引所における株価大暴落を契機とした事態でした。

なぜ株価が大暴落したのかということが、世界大恐慌の原因にもなっています。

それを知るためには、そもそもの時代背景を思い描かなければなりません。

当時よりさらに遡ること10年、1918年にヨーロッパを中心に世界で初めての大戦である「第一次世界大戦」がようやく終結しました。

この時の戦禍が癒えようとしていた時代背景があります。

この第一次世界大戦では、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国が中央同盟軍として敗戦国になりました。

一方、フランス、イギリス、アメリカ合衆国、イタリアの連合軍側が勝利し、日本も戦勝国に分類され大日本帝国として大正天皇が統率していた時代でした。

さて、こうして1920年代に突入しますが、大国になりつつあったアメリカでは合衆国国内において移民が急増し、都市化が急伸長、住宅需要増大、フリーウェイ整備、モータリゼーションの進行に伴い、自動車メーカーのビッグ3もこの時代に始まっています。

これらの影響下でアメリカは空前絶後の好景気に沸くことになります。

時代的には前後してしまいますが、不朽の名作として名高い「タイタニック」のモチーフであるタイタニック沈没事故が発生するのが1912年の出来事だったことでビジュアル的に想像できる方もおられると思います。

更に、資本主義が開花した時代でもあり、私企業に対して株式という概念の下、民間人が投資するという当時としては画期的な経済活動がブームになります。

この現象はアメリカ、ヨーロッパで広がりを見せましたが全世界の潮流になりました。

アメリカの好景気に沸く状況から、投資が投資を呼ぶ経済状況になりました。

そのためアメリカにおいては、過剰な資金(株式による)で設備投資が進み、製造業をはじめ大増産体制が進行していました。

しかし、モノ余りの現象が出始め、「生産しても売れない」事態になってきました。

この頃、ヨーロッパ各国も第一次世界大戦から約10年経過し、製造業の復興も盛んになり始めた頃と重なります。

このような時期にニューヨーク株式市場でのアメリカ企業株の売り気配が最高潮に達し、ついに1929年10月24日から始まる「売りが売りを呼ぶ」大暴落劇が始まりました。

更にこの株価大暴落に不安を感じた国民が、一斉に銀行からの預金引き出しに走ります。

いわゆる「取り付け騒ぎ」です。

結果、銀行は支払い能力を超え倒産、銀行から融資を受けていた企業も倒産という危機ドミノが発生するに至ります。

これが1929年に発生した世界大恐慌の序章になります。

その後、全世界に広がりを見せて経済悪化が広まってしまいます。

結果がどのようになったのかは後述しますが、今から10年前の2008年から2009年にかけての大不況期と呼ばれる時期にアメリカ国内総生産額GDPが1%未満の減少であったのが、この世界大恐慌の当時には15%前後も減少したという報告があります。

それほど未曾有の経済破綻であったと言えます。

世界大恐慌の予兆

以上のように世界大恐慌は発生しましたが、予兆がすでに始まっていました。

1929年より遡ること3年、1926年には、アメリカ合衆国フロリダ州で、土地バブルが二度にわたるハリケーン(1926 Miami hurricaneと1926 Havana–Bermuda hurricane)の自然災害で破綻を来し、1928年になりフロリダ州内の31に及ぶ銀行が倒産し、翌年の1929年には57件にも上りました。

また国際的には、遡ること2年の1927年にスイスのジュネーブで開催された世界経済会議で懸念されていた恐慌発生を未然に防ぐ善後策を論じていましたが、いずれの国々にも無視された形に終わってしましました。

そのため、国際経済分野に関する専門家や識者の中には、1929年から始まる世界大恐慌を既に察知していた方々もいたことは事実です。

さらに、世界大恐慌発生前年の1928年には、南米ブラジルにおいてコーヒー豆の過剰生産が契機となる恐慌が発生しました。

この恐慌は当時として、この時を遡ること30年以上前に発生した恐慌と同じく小規模なダメージであるというイメージでしかとらえられていませんでした。

この南米における恐慌が直接的な引き金ではないことは確かですが、予兆であることだけは確かだったと考えられます。

世界大恐慌発生の直前

さて、大恐慌の原因となった事象やその予兆を上に示しました。

しかし、大恐慌の端緒となったニューヨーク株式市場の大暴落とは一体どのような推移で進んだのでしょう。

ここでは、大暴落の様子を直前直後の期間における出来事と意味合いを時系列でご紹介しましょう。

1929年6月

「ヤング案の成立に向けてのハーグ国際会議がスタート」

このヤング案というのは、第一次世界大戦の敗戦国となったドイツの戦後(第一次世界大戦)賠償金の減額を決めるため各国協定案でした。

この案が、ハーグ国際会議において翌年1月に合意を得られるに至り、世界恐慌に拍車をかける結果となりました。

つまり、戦後賠償金の受け取りを目論んでいた各国の思惑が外れてしまったことで、大恐慌の加速剤としての役割を果たしてしまうことになりました。

1929年8月9日

「公定歩合を6%に引き上げ」

この日にアメリカ合衆国連邦準備制度理事会(FRB)にて公定歩合(政策金利)を6%に引き上げを発表しました。

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これにより一部株式投資に向けていた資金が預貯金に流出する結果になりました。

株式相場を下支えする固定投資家が離れる結果になったといっても良いでしょう。

1929年9月3日(火曜日)

「ダウ平均株価が史上最高値を付ける」

ニューヨーク株式市場で株価の指標として用いられているダウ平均株価が381ドル17セントと、史上最高値を付けることになりました。

株式相場の常で高値を付けたことで、利食い(株価差益を得る)のための株式売却が一部でみられる結果になりました。

この利食いで売買が上下する局面のことを「調整局面」といいますが、この時期においては、この先1か月の間でダウ平均株価指標が17%下落しました。

この時期株価は激しく上下し株式市場は不安感と期待感の交錯する不安定な様相を示していました。

1929年9月26日

「英国イングランド銀行が公定歩合を引き上げ」

先のアメリカ合衆国における公定歩合を上回る率になったことで、アメリカ国内の資金がイギリスに流出することとなりました。

1929年10月24日(木曜日)

「ニューヨーク株式市場における大暴落発生」

この日が木曜日であったことから「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれることになりました。

当日は、当時もアメリカを象徴するゼネラルモーターズ(GM)の株価が寄り付き(市場開始直後のこと)から80セント下落と比較的穏便なスタートを切ったのですが、市場心理から当日午前中には、売りが売りを呼ぶ売却一色になり株価が付かないほどの大暴落になりました。

そのため、周辺銘柄も売られこの日だけでニューヨーク株式市場では1,300万株弱が売却された結果になりました。

当時の混乱ぶりは、ウォール街周辺の不穏な空気のため400名の警官隊が出動し警戒態勢がとられたことや、国内のシカゴ市場及びバッファロー市場が閉鎖に追い込まれたことで理解されます。

さらに株式投資を専らとする業者が11名も自殺したという報道もありました。

1929年10月25日(金曜日)

「買い支え協調発表」

前日の事態を受けて、この日の13時には大手の株式仲介業者たちと銀行家によって行き過ぎた株売却を買い支えすることで合意がなされたことが報道されました。

この日の更なる暴落は解消しましたが効果は一時的なものとして終わることになります。

1929年10月28日(月曜日)

「更なる株価暴落」

株式仲介業者や銀行家によって買い支えるとの発表にも関わらず、株式市場は下落の幅を広げ、ダウ平均株価は、この日1日で13%下落することになってしまいました。当日1日の出来高は920万株強と大商いの日になりました。

1929年10月29日(火曜日)

「大暴落パニック」

5日前に記録的な大暴落、前日の暴落を受けて更に大暴落をこの日経験することになりました。

市場が開いた直後30分間で330万株弱が売りに出され、午後の取引市場を閉鎖せざるを得ない状況でした。

しかし、午前中だけで、その取引で売られた時価総額が当時の価値で140億ドルが消えたことになりました。

取引株数は1,600万株強、平均株価指数で43ポイント下落するに至ります。

このことで、この日を「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれています。

この日を境に様々な負のスパイラルがかかり始め、世界大恐慌の序幕が開けられといって良いでしょう。

以上、アメリカ合衆国で発生した世界大恐慌の序幕である株価大暴落を詳細にご紹介しました。

一般的に経済関係に属する恐慌は、金融恐慌でも株式恐慌でも同じですが、ちょっとしたキッカケが市場心理(金融市場心理、株式市場心理)に作用し、パニック状態になることで事態が急激に悪化します。

そのため、上にお示ししましたように数日間という短さで、その後十年余り続く悪影響が形成してしまいます。

最終的には、この大恐慌の余韻を引き摺ったまま1939年に第二次世界大戦が勃発します。

人類史上最大最悪の戦争の結末になってしまいます。

しかし、単にアメリカにおける株価の大暴落がなぜ世界全体に悪影響を及ぼしたのかという疑問を持たれる読者も多いのではないでしょうか。

冒頭、情報通信技術の発達に言及しました。

しかし、それだけでは、当時のニューヨーク株式市場から端を発したアメリカ国内の株式大暴落だけで済んでいるはずです。

そこで、世界大恐慌になってしまった大きな理由を次にご紹介したいと思います。

なぜアメリカ国内に恐慌が全世界に伝播したのか?

1929年当時のアメリカ合衆国を代表する証券取引所であるニューヨーク証券取引所では、過去開所以来年々取引額を増し続けている最中でした。

しかし、いくら市場が伸びていようとも当時はまだアメリカ経済を左右するような大きな役割を担ってはいませんでした。

また、循環経済(好況・不況を繰り返す経済)の中での不況も克服してきた実績もあり、この株式市場だけを見た場合では、そこまで大きな被害をもたらすとは考えられていませんでした。

しかし、この当時の機関投資家である銀行が連鎖倒産してしまうという「金融システム停止状態」がより経済恐慌の状態に拍車をかける結果になり加速させる事態になりました。

更には、連邦準備制度理事会(FRB)の誤った金融政策が悪化させ更なる経済を招来させたと言われています。

これは、当時の金融の要である「金本位体制」という政策と大きくかかわりを持っていました。

「金(Gold)」を価値の基準とした金本位体制は、各国における「金」の流出や流入で大きく財政が左右されます。

そのため、第一次世界大戦後やその後のインフレーションによって各国、特にドイツを含めた東ヨーロッパ諸国の脆弱な金融システムが崩壊寸前にまで追い込まれることになってしまいました。

当時のアメリカ大統領であるハーバート・フーヴァーが時を失して発したコメントとして、「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫だ)」というのは、誤りではなかったものの世界大恐慌に至る歯止めにはならなかったといわれます。

世界大恐慌拡大の概要

このように、アメリカ証券取引所における株価暴落パニックはアメリカ国内に収まらず世界各国に波及して行くことになります。

そこで、年月を追って順にその概要をご紹介しましょう。

1930年9月

アメリカ合衆国のニューヨーク株式市場における株価大暴落後約1年を経過した段階で、国際連盟の金(ゴールド)委員会によって全世界的な恐慌の状態が報告されています。

1930年10月

南米ブラジルでは政情不安と重なり暴動とクーデターによって、「ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス」がブラジル大統領となります。この政権は第二次世界大戦終了の1945年まで続きます。

1930年12月

フランス植民地金融会社であるSFFCが破綻の危機に瀕し、フランス政府、インドシナ銀行を筆頭に他の国々の植民地銀行の支援を受けることになります。

1931年1月

ボリビアがデフォルト(債務不履行)に陥り、これに続いて南米各国も次々とデフォルトに陥ります。

1931年3月

フランスによる経済制裁でオーストリア経済が脆弱化の一途を辿りき規定状況に陥りました。

1931年5月

オーストリアを代表する「クレジットアンシュタルト銀行」が破綻し、それに引き続いてドイツで第二位の地位にあった「ダナー銀行」が破綻します。

これによりドイツの大統領令によって3か月間、国内の全銀行が閉鎖されるに至ります。

ここで、ドイツ国内では多くの企業倒産が発生したばかりか、ドイツ以東の東欧諸国や全世界的な経済危機に見舞われることになります。

以上のように時系列で見てみますとアメリカの株式暴落を機に、2年以上にわりその影響が続き悪化の一途をたどっていることがうかがえます。

次のセクションでは各国別の動きをご紹介しますが、どの国々も独自の国内事情を抱えており、様々な政治経済の色合いを示しました。

総じて、言えることは植民地支配による経済ブロック化の強化、それに伴う各国間の利害衝突が発生し、ついに1939年に勃発する第二次世界大戦へと突き進んでいきます。

1939年はニューヨークの株価暴落からちょうど10年後になります。

世界大恐慌に影響された各国の動き

世界恐慌に見舞われた各国ではどのような状態になっていたのかを、国別に見てみたいと思います。

アメリカ合衆国

同規模の恐慌は史上初であり、未曾有の大恐慌が巻き起こった時のアメリカ合衆国大統領は、第31代大統領ハーバート・フーヴァー(Herbert Clark Hoover:共和党)でした。

後世になり、数々の批評や批判を受けることになる統領でもありました。

しかし、これだけの経済的大惨事においては、大統領が誰でも同じような方法を採り、失敗していたとも考えられます。

フーヴァー大統領は、世界恐慌が発生した年、つまり1929年の3月に大統領に就任したばかりの新任の大統領でした。

アメリカ大統領は1期4年が任期のため、まさしく世界大恐慌時の大統領と呼ばれるにふさわしい時期を務めていました。

ちなみに、同音で「フーヴァー」の名前で有名なものとして「フーバーダム」がありますが、このダムは後任のフランクリン・ルーズヴェルト大統領の時に完成したダムです。

着工がフーヴァー大統領の任期中に開始されたのでこの名がつけられました。

また、FBI(連邦捜査局)の本部ビル名で有名なフーバービルは、FBIの創始者で初代長官であったジョン・エドガー・フーヴァーに因んでいますので、ここで言う大統領のフーヴァーとは異なります。

次に、フーヴァー大統領が大統領就任後半年で発生したニューヨーク株式市場株価暴落に対してどのような政策を行ったのかをご紹介しましょう。

大統領就任前の彼は、商務省長官として約7年間その職に就き、前任の大統領2名に仕えていました。

そのため、一般的に当時の政治経済に関しては精通していた人物と言えます。

彼はこの当時に主流であった古典派経済学の信奉者であったことが世界大恐慌の拡大を惹起し増悪させてしまった要因でもありました。

古典派経済学は、それまで約100年間も主流中の主流といって良いほどの経済学の思想とも呼ぶべき学派でした。

そのため、当時としては批判的な論調はあまりなく、その主張する政策は「自由放任政策」や「財政均衡政策」を中心に採用しました。

このことが後々に悪影響を与える結果となってしまったことは間違いありません。

一方では、古典派経済学には無い政策として「保護貿易政策」という多国間における経済政策を採用しました。

これも、その時の時勢を読み誤った一つとして現代では批判される失策の要因の一つになっています。

つまり、経済社会における「自由放任主義」とは、極力政府や国が、経済介入を行うことを嫌い、経済全体の流れに任せるという方策です。

また「財政均衡政策」とは、国の経常支出総額と経常収入総額が等しくなるような財政状態を目指すもので、経常黒字を増やしたり、経常赤字を減らしたりする意図的な政策をとらない立場でした。

この二つが、無政策だと非難を受ける原因になりました。

その結果、彼の任期終盤である1933年における経済指標を見てみると、20年前の1919年におけるGDP比で45%の減少、株価平均では80%以上の下落を示すに至ってしまいました。

また、工業生産額では平均30%以上低落し、1,200万人の失業者であふれ失業率は実に25%にも達する結果になりました。

フーヴァー大統領のその後を受けた第32代大統領フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt:民主党)は、修正資本主義に基づいた有名な「ニューディール(New Deal)」政策を掲げ大統領選を戦い、圧倒的優勢下で大統領選に当選しました。

この政策は、合衆国政府が市場経済に対して積極的に関与すべきとする政策へと転換するものでした。

具体的には、「テネシー川流域開発公社(TAV)」を設立させ、「民間資源保存局(CCC)」による雇用対策、「農業調整法(AAA)」を制定し農業生産物調整を政府主体で実施、「全国産業復興法」で労働時間の短縮や賃金対策が行われ、その他にも数々の積極政策を打ち出し国家レベルで経済打開に向けた介入を実施しました。

驚くことには、これら政策を大統領就任後100日間で実施したことでした。

アメリカでは、大統領に新たに就任してから100日間は、大統領が実施する政策や方針に口を出さない「ハネムーン期間」というものがあり、その間に実行した強力な政策でもありました。

結果、1930年度のフーヴァー政権下での国家歳出予算が対GDP比で3.4%程度だったのが、1934年度のルーズベルト大統領政権では、10.7%にまで伸長する結果になりました。

その後、ルーズベルト大統領の2期目には、大不況の揺り戻しが入り「ルーズベルト不況」と呼ばれる経済の低迷を迎えることになりました。

最終的にこの大不況は、1941年まで大恐慌前の経済水準にまで戻せない結果になりました。

なお、ダウ平均株価は、1929年株価大暴落直前の値では、1954年11月に至るまで戻らず、なんと四半世紀に及ぶ悪影響が持続した形になりました。

イギリス(当時の正式国家名称:グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)

イギリスもアメリカ合衆国と同じく、長期の大不況に見舞われました。

打開策として数々の委員会が組織され中でも1929年設立のマクミラン委員会のマクミラン報告、1931年設立のメイ委員会によるメイ報告が有名で、後者は現状の分析から打開策までの報告となっていました。

イギリスの大恐慌発生時における国際情勢は、大英帝国として名を馳せた時代も色褪せ、弱体化していた時期になります。

イギリスは、いち早く金本位体制を廃止し、ウェストミンスター憲章(1931年)により植民地支配を止め、自治領として対等な国家関係の樹立を行うことでイギリス連邦を形成する方針にしました。

このことは、イギリスを宗主国としたブロック経済政策の推進を行っていくことになり、イギリス連邦を形成し、連邦内での関税を低減、撤廃する反面保護主義政策を採用し、諸外国からの輸入には高い関税を課すことになりました。

イタリア(当時の正式国家名称:イタリア王国)

ヨーロッパ諸国の中では、大恐慌の影響を比較的受けなかった国といって良いでしょう。

これは、大恐慌の発生した1929年時点より以前から、国内経済情勢が悪くミラノ証券取引所も不振に喘いでいた時期でもあったためともいわれています。

しかし、この長引く不景気がファシスト政権を生み出す結果になり、第二次世界大戦の枢軸国の一角を占めるまでになります。

しかし、歴史的には批判の多い一方でこの政権になったことにより国内情勢は、ストライキによる鉄道遅延は無くなり、公共土木事業の推進、産業統制などによる中小企業の整理統廃合が行われることで産業構造の単純化と強化を実施できることになったことは良い面でもありました。

フランス(当時の正式国家名称:フランス共和国)

フランスは、第一次世界大戦の戦勝国としてドイツに対して総額1,320億マルクもの賠償請求権を有していました。

結果、約200憶マルクの賠償を現物支給で受け取ることはできたものの、ドイツからの賠償支払いが滞ったため、ドイツにおけるルール地方を占拠していた時代でした。

そうした中でフランスは、世界恐慌が発生してから1931年に至るまでの間、悪影響を受けずに済んでいました。

これは、フランスの経済政策について「フランス植民地金融会社」が破綻する1931年まで堅調な経済を維持したと言われています。

ドイツ(当時の正式国家名称:ヴァイマール共和国)

第一次世界大戦後の敗戦国として戦後賠償に苦しむ国家でした。

これにより国内ではハイパーインフレーションを引き起こすことになりました。

さらに世界大恐慌をきっかけに経済状況の悪化に拍車をかけ、失業率が40%以上に達し、金融機関をはじめとした民間企業の倒産などが相次ぎ、経済破綻を来しました。

こうした混沌とした社会情勢により「アドルフ・ヒトラー」率いるナチス党の台頭を許す結果になったことは世界史上有名な事実として記憶されています。

ソ連((当時の正式国家名称:ソビエト社会主義共和国連邦)

ソビエト社会主義共和国連邦は、この当時における主要国家の中で唯一「共産主義国家」として存在していました。

このため、世界恐慌の影響を全く受けず、高い経済成長を続けることができました。

1930年には、GDPで世界第二位の経済大国というポジションを占めるに至っています。

この時期のソ連の成功を範として、共産主義に舵を切る国家も続出したことは有名でした。

しかし一方では、ソビエトの国家内情は必ずしも自由闊達な経済国家ではなかったことが現代のロシアになって判明しています。

日本(当時の正式国家名称:大日本帝国)

日本においては、第一次世界大戦の戦勝国とはなったものの、その後に関東大震災(1923年9月)、昭和金融恐慌(1927年3月)によって脆弱化した経済状況にありました。

その後の世界大恐慌(1929年3月)で、アメリカ向け生糸輸出が急激な落ち込みを見せ、危機的な状況に陥ることになりました。

その後、東北における凶作、昭和三陸津波の発生などで「昭和農業恐慌」も発生し、国内経済は塗炭の苦しみを味わうことになりました。

そのため、アジア圏内でのブロック経済思想が台頭し、後々の第二次世界大戦へと続いて行く結果になりました。

中国(当時の正式国家名称:中華民国)

この当時の中国は、「南京国民政府」として国家としての体を一応は成してはいたものの、列強各国の植民地支配が経済の中心になっていました。

そのため、世界大恐慌の影響は列強各国の国内情勢に大きく依存し、植民地によってさまざまな状況でしたが、総じて大きな影響を受けていたことに変わりはありませんでした。

一方では、日本も大きく関与する満州事変(1931年9月)などが勃発し、政治的な不安定感が増していくことになりました。

世界大恐慌に見るコロナウイルス禍後の世界経済

以上ご紹介してきた内容は、株式大暴落による世界的経済破綻である世界大恐慌をご紹介しました。

今回のコロナウイルス禍でも、同様にアメリカ、ヨーロッパを中心に経済活動が停止、国家財政を圧迫するといった現象は大恐慌と類似しています。

そのため、先見性をもってこのコロナウイルス禍を克服し、いち早く国内景気を持ち直し、国際的経済活動を活性化させることへのヒントにすることが重要だと考えられます。

このコロナウイルス禍は、国家財政にゆとりのない国々や体力のない国々にとっては国家存亡の危機となりえる大惨事として捉えることが必要です。

また、国家間の貧富の差がさらに拡大を見せることが明らかであり、不満分子によるテロ攻撃、国家利権を争う戦争などが予見されることは容易に理解できます。

そのためには、地球人として広い視野を持ち対応していくことが望まれ、何より強いリーダーシップの下、「挙国一致体制」で今後に挑んでいかなければならないと思います。

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