OPEC(オペック)とは?加盟国、会議、本部

OPEC

今回は、OPEC(オペック)について徹底解説してみたいと思います。

OPECは、英名で「“Organization of the Petroleum Exporting Countries”(石油輸出国機構)」の略称で、主に中東地域の石油産出国によって組織されている機構のことです。

1970年代初頭と終盤にあった2次にわたる「石油ショック」と呼ばれる石油価格の高騰を経験されている年配の方々は、毎日のテレビニュースなどでよく耳にされた方々が多いと思います。

約50年前ですので、多くの方はこのオイルショックと呼ばれた日本国内におけるパニックを実際にご存じの方は少ないと思います。

この時期には、日本の高度成長期とオーバーラップして、成長の鈍化がみられた時期でもありました。

今では笑い話の一つですが、当時は「石油価格の高騰」と「トイレットペーパーが無くなる」というデマが世間に蔓延することで、一種のパニックになり日本国内の小売店に長い行列ができたこともあります。

後ほど詳述しますが、当時はここでのテーマであるOPECの判断によって原油価格が高騰したことが大きな原因になりました。

しかし、栄枯盛衰の諺の通り2020年代に入った現代では、このOPECもその力を失いつつあり、石油価格を攻撃的且つ一元的に決定する力が無くなっています。

更に、モータリゼーションの波に乗ってガソリン需要が旺盛だった頃に比べて、代替エネルギーである、太陽光発電、リチウムイオン電池などが効率的に活用され始め石油依存度が徐々に低下し始めています。

しかし未だ、石油という私たち現代人にとっては、ありとあらゆる人工物を作り出すエネルギー源として活用されている化石燃料は、人類の発展にもかかわるものとして重要な位置付けにあることは変わりません。

そこで、ここでは、石油の歴史を語るうえで欠かすことのできないOPECの成り立ちから現代にいたる退勢までを歴史を辿ってご紹介したいと思います。

OPECについてご紹介する前に、まずはその中東地域についてご紹介したいと思います。

地域柄日本からは遠方もあり、なじみの少ない地域ですのでよく覚えておいてください。

中東地域について

OPECは、当初中東地域の諸国によって結成された機構だとご紹介しました。

ではこの「中東」とはどういった地域を指すのでしょう。

以前は「中近東」という言い方をされてきましたが、現代では主に「中東」という言い方に統一されつつあります。

この「中東」という言葉は英語から来ています。

過去、大英帝国時代に東インド会社がインドを活動の中心とした大航海時代がありました。

この時代に“Middle East”と呼ばれた地域が、日本語訳されて「中東」または「中近東」となりました。

日本から世界地図を見ればこの地域は西側に当たりますが、イギリスから見れば東側に当たり、インドや中国を“East”とすれば、この地域がその中間地点に入り“Middle”が付いた地域になったというわけです。

主に宗教的には「イスラム教」がほぼ100%の国民に広がりを見せている地域になります。

欧米での考え方では、概ね16か国がこの地域に入っています。

日本においては、外務省ホームページから見ると「中東地域」と言えば、その16か国に13か国を加えた29か国が中東地域諸国となっています。

一般的には、欧米において認識されている16か国が中東とされる場合が多く、日本では便宜上それに周辺国も含めていると考えられます。

OPECは、この中東諸国の内4か国と南アメリカ大陸北部にあるベネズエラが加わった5か国が原加盟国として発足しています。

以上、中東諸国地域を理解したうえでOPECが現代社会までたどってきた道をご紹介しつつ詳細について解説してみたいと思います。

OPECの設立

OPECは1960年(昭和35年)9月14日に設立された機構です。

その結成の目的は、「国際石油資本などから石油産出国の利益を守ること」として始まりました。

日本では高度経済成長期の真っ只中の時期でした。

ちなみに日本の高度経済成長期は種々区切り方があって一概に言えませんが、通常1954年(昭和29年)から1973年(昭和48年)までの約18年間だと言うのが一般的です。

OPECの発足当時は、既述通り中東のイラン、イラク、サウジアラビア、クェート、ベネズエラの5か国でスタートしています。

当然、石油産出国で構成されています。

この機構の目的にもありますように、国際石油資本と言われ、石油メジャーとも称せられる欧米先進国の石油会社の現地搾取に対抗して立ち上げられたのが始まりでした。

当時の石油メジャーは、この時期よりも半世紀近く前から経営されていた石油会社で、全世界の近代化により石油需要の伸びと合わせて企業規模も全世界的な規模に育つようになってきました。

当時のこれら位企業群のイメージは、現代的に言うならばGAFA(ガーファ:Google、Apple、FaceBook、Amazon)ほどのイメージでしょうか。

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超巨大企業と言っても良いでしょう。

石油メジャーによる石油支配

欧米を中心に1960年までは、国際石油資本という超巨大企業群が、世界の石油市場を牛耳っていたと言っても過言ではないでしょう。

その企業群は、資本力と政治力を使用し、石油探鉱(採掘)、生産・輸送・精製・販売までの全段階を支配し、石油関連のシェアの大部分を寡占していた巨大企業複合体でした。

当時の国際石油メジャー企業群を構成する企業数にちなんで、“Seven Sisters”(セブンシスターズ)と呼ばれ、7つの大企業で構成されていました。

総称的にはこの“7sisters”ですが、これにフランス石油(CFP)と加えて、“Eight measures”(エイト・メジャーズ)と呼ばれることもありました。

当時のSeven Sistersには以下の会社が名を連ねていました。

Standerd Oil New Jersey(スタンダード オイル ニュージャージー)

Royal Dutch Shell  (ロイヤル ダッチ シェル)

Anglo Persia (アングロ ペルシャ)

Standard Oil new york (スタンダード オイル ニューヨーク)

Standard Oil California (スタンダード オイル カリフォルニア)

Gulf Oil (ガルフ オイル)

Texaco (テキサコ)

上記の7つを一般的に石油メジャーと呼ばれ、中でも上位の3社(Standerd Oil New Jersey、Royal Dutch Shell、Anglo Persia)をBig3(ビッグスリー)と呼んでいました。

この7つの石油企業もそれまでにはお互いに数多くの覇権争いや勢力争いを行っており、ようやくOPECが出来る直前の形としてこの7つの会社で世界を制覇したと言って良いでしょう。

また、その後、現代に至るまで独占禁止法の制限を受けたり、政治的な戦略によって離合集散が繰り返されました。

その結果、1990年代以降現在に至るまでには、「エクソンモービル」、「シェブロン」、「BP」、「ロイヤル・ダッチ・シェル」の4社に収れんされました。

また、現代では、この4社に「トタル(フランス)」と「コノコフィリップス(アメリカ)」を加えた6社をスーパーメジャーと呼ばれるケースもあります。

石油メジャー搾取からの脱出と拡大傾向

OPECは、こうした石油メジャーに対抗して石油産出国である5か国を皮切りに世界最大のカルテルと呼ばれるまでに成長し、石油メジャーの国際的石油支配から脱出を図りました。

その機運が急速に高まったのが1960年(昭和35年)8月で、石油メジャーによりさらに原油価格を引き下げるとの意向に対し反発し、イラクの呼びかけにより9月にイラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの五カ国によってスイスのジュネーブに本部を置いたOPECがスタートする結果になりました。

これにより石油産出国における石油メジャーからの脱出が一挙に加速しました。

その後、産油国の権利を拡大するため参加国が徐々に増加し、1970年代には今の規模程度にまで拡大しました。

1971年(昭和46年)3月には、トリポリ協定と呼ばれる石油メジャーとの協定に成功。

この協定は、石油価格が過去石油メジャーによって一方的に決定されていたものを、今後はOPECとの協議により決定していくことと、今後の石油価格を値上げする方向性が決定されました。

さらにこれを機に加速度的にOPECが権限を強めていくことになり、1972年(昭和47年)のリヤド協定で、石油採掘事業そのものも石油メジャーから産油国への権利委譲を促すことが合意するに至りました。

つまり、それまで中東諸国には自国内の油田の採掘権が無く、全て石油メジャーに握られていました。

これらのことが実現できた理由の一つには、今から振り返って言われることですが、以下の3つの要因により可能になっと言われています。

・ 石油メジャーによる石油カルテルに対抗するという姿勢から、一時的にも加盟国が協調路線を模索

したことが功を奏したこと。

・ 石油メジャーの搾取から奪取した権益、つまり石油産出量が1970年代には世界生産の6割近くにな

っていたことで、その発言力が強まったこと。

・ 世界各国がOPECに対して、石油メジャーを構成する各企業群と同じように強固なカルテルを結ん

でいると考えられたこと。

以上の3要素が絡み合い、1973年(昭和48年)には、OPECが完全に石油価格の決定権を握ることが出来ました。

この背景には、第一次石油ショックが大きく絡んでしますので次項で詳細をご紹介しましょう。

OPECが引き起こした第一次石油ショックによる絶頂期

前項で1973年に石油価格をOPECによって掌握できるようになったと紹介しました。

この年、石油産油国及びOPECでは矢継ぎ早に色々な事象が起こっていますので、やや詳細にその経緯について記載することで「第一次石油ショック」が勃発した経緯をご紹介したいと思います。

なお、この前年の1972年(昭和47年)にはイラクとアルジェリアが石油の国有化を実現させており、ますますOPECの勢力が拡大していた時期にありました。

また一方では、1973年(昭和48年)10月には「第四次中東戦争」が勃発し、イスラエルとその他のアラブ諸国との中東戦争が始まったわけです。

この時、OPECは中東6か国で構成されており、その国々により原油価格をなんと70%引き上げることに合意してしまいました。

更には、「OAPEC(アラブ石油輸出国機構」がイスラエルを支持する西側諸国を標的に生産削減と石油禁輸を実行するに至り拍車がかかったと言えます。

これにより原油価格が高騰し始め更に同年12月にはOPECが更に130%の値上げを実行し、原油価格がさらに高騰した結果、10月以前に比べて石油価格は約4倍になり、当時時1バレル当たり1.90ドルであった価格が9.76ドルの相場になり5倍以上の値上がりを見せました。

なお、石油量の単位は「バレル」と言い、1バレルは約160リットルになります。

欧米諸国や日本では、石油ショックというパニックに似た経済状況に陥ったわけですが、この原油価格の高騰は原産国、つまりOPEC加盟国にとっては莫大な金額を手に入れることになり、いわゆる巨額オイルマネーと言われる資金が動くことになりました。

OPECの絶頂期

さて、このように先進諸国、特に石油メジャーに石油供給を頼っていた国々では、OPECによる石油完全支配により莫大な購入費用を支払うことになったわけです。

1973年末から始まったオイルショックは、その後、1974年に石油禁輸が終了したことに伴い終了しましたが、その後も引き続きOPECによる価格統制が継続し、徐々に価格は上昇傾向にありました。

この頃のOPECは、最大の産油国であるサウジアラビアの主導で動き、同国の石油相であった、アハマド・ザキ・ヤマニ石油相が指揮していました。

当時の新聞記事にも、この「ヤマニ石油相」という言葉が断続的に掲載され日本でも有名になりました。

ここで、覚えておきたいことは石油メジャーによる石油支配の時には、需給関係を取り仕切り、需要に合った価格設定を行うことでバランスの取れた石油相場が形成されていたことです。

歴史的には、世界的規模のカルテルの中では、良心的なカルテルであったと言われています。

この路線を穏健に引き継いだのが、このヤマニ石油相の方針で、OPEC参加諸国の利害関係を調整し、また原油に関する国際的需要に応じて、自国の原油生産高を調整させることで需要と価格を統制し続けることが出来ました。

その流れは継続し、参加各国は下記のように自国の石油会社を徐々に国有化するに至りました。

まさに、OPECの絶頂期と言って良いでしょう。

ベネズエラによるベネズエラ国営石油会社を設立

カタールがカタール・ペトロリアムを国有化

クウェートがクウェート石油公社を国有化

アブダビ首長国がアブダビ国営石油を設立

サウジアラビアがサウジアラムコを完全国有化

この流れにより、石油メジャーによる石油支配は完全に終焉を迎えることになりOPECの絶頂期を迎えることになりました。

OPECが阻止できなかった第二次オイルショック

中東地域は古来紛争地域として認識されており、数々の内戦や紛争に枚挙に暇がない状況でした。

絶頂期を迎えたOPECもこの影響を受けざるを得ない運命にあったとも言えるでしょう。

1978年(昭和42年)1月にイラン革命が勃発しイラン国内の政情不安が発生しました。

これに合わせて、アメリカにおける石油需要が急激に高くなったことで、国際石油価格が高騰を続けることになりました。

第二次オイルショックの始まりです。

この時、アラブ諸国の国情に従って、石油価格も統一されずにいたことに対してOPECでの石油価格の統一を努力しました。

しかし、日々高騰を続ける石油価格に対して統一価格を設定しようとすることには無理があり、統一価格を実現させることが出来ませんでした。

この状態が1980年(昭和44年)頃まで続き、石油価格は高値安定といった様相を呈していました。

OPECの価格統一政策にもかかわらず、実行できなかったことが大きな原因となるオイルショックでした。

第一次石油ショック、第二次石油ショックの二度にわたる石油価格冒頭は、先進各国にも大きな教訓を与えることになります。

こうしてOPECの弱体化が胎動し始めることになります。

OPECの実質的崩壊の前兆

1982年(昭和46年)頃からOPECの弱体化が顕著になってきます。

この原因を具体的に簡単に列挙しますと以下のようになります。

① 先進国による石油備蓄量の拡大が行われたてきたこと。

② 代替エネルギーの開発が進んできたこと。

③ 北海油田の開発で石油供給が落ち着いてきたこと。

④ メキシコなどのOPEC非加盟の産油量が増大したこと。

⑤ 各国による省エネ対策が国民運動となる傾向で石油需要が頭打ちにになったこと。

⑥ 第二次オイルショックを招来した結果からOPECの協調体制が弱いことが一般に知られたこと。

以上の6つの要素が主要な理由として、世界の石油消費に関する市場が沈静化し、石油価格が下降傾向に転じ始めることとなりました。

通常市場経済では、価格が低下傾向にあるものは、供給量を絞ることで価格維持を図る政策を取ります。

当然、上記①から⑤の理由で、石油価格が低調なため、OPECとしては減産に踏み切らなければ、ますます価格低下が続くことになります。

そこで、最大の産油国であり、OPECの盟主であったあったサウジアラビアを中心として減産基調にしようとしたのですが、各国の利害が絡み、同一歩調が実現できませんでした。

しかし、最大の原産国であるサウジアラビアが減産体制をとることで、どうにか価格維持を図ることが出来ていました。

その結果サウジアラビアでは、1980年にはサウジアラビアの産油量が1,000万バレルあったものが、5年後の1985年には200万バレルにまで低下させなければなりませんでした。

5年で5分の1の産油量になったわけです。

しかし、さすがに産油量最大を誇るサウジアラビアでも、この減産に耐えきれずに、1985年(昭和60年)12月に減産方針を放棄し、一転増産を開始するに至ります。

その結果、世界の石油価格が暴落し原油価格が6分の1になってしまいました。

この件で、OPECの石油価格支配力が大幅に縮小したと見られています。

このことは、OPECで発表していた原油価格の公示価格制の廃止を招き、OPECによる石油価格決定権が終焉を迎えることになりました。

この公示価格に代わり、OPECでは、1987年(昭和62年)より「OPECバスケット価格」と呼ばれる価格を発表するようになりました。

この価格は、OPEC加盟諸国の代表的な原油価格を加重平均した数値になります。

つまり、強権的にOPECによって加盟国の原油価格を一元的に決定し、その価格で販売するという体制を放棄し、加盟国でもそれぞれの事情に応じて石油価格を決定し、その結果を加重平均した価格をを後付けで発表しているに過ぎなくなったということです。

しかし、原油価格の推移をみる上では、この「OPECバスケット価格」が重要指標であることに変わりはありません。

OPECの実質的崩壊の本番

1985年(昭和60年)に始まるOPECの崩壊の兆しですが、その後も歯止めがかからずその傾向がますます強まって行きます。

OPECとしても座して死を待つよりもという感覚でしょうか、1987年(昭和62年)12月にOPECとして加盟国の生産上限量と標準価格を設定することで合意することに成功しました。

これにより、原油価格そのものはやや上昇傾向に移りましが、加盟国による抜け駆け的増産により、再び価格低下の傾向が現れます。こうしたことの繰り返しがしばらく継続しました。

このような中、世界的にも有名な「イラン・イラク戦争」が1980年から継続していたイラクが1988年にようやく終息した戦争と、こうしたOPECにおける上限設定の約束を守らない加盟国に憤懣を募らせます。

具体的には、アラブ首長国連邦(UAE)とクウェートに対して激しく非難することになります。

1990年(平成2年)2月に至っては、OPECはこの両国に対して上限規制の遵守を強く要望したにもかかわらず、それを実行させることはできませんでした。

その結果、同年8月にイラクはクウェートへの侵攻を実施、クウェート全土を支配下に置くことになりました。

つまり世に言う「イラクによるクウェート侵攻」の勃発です。

奇しくもこの侵攻勃発により、クウェート・イラク・サウジアラビアといった大産油国の油田地帯が危機にさらされたことで、OPECが望んでいた原油価格の維持、上昇が僅かでしたが実現したという皮肉な結果になっています。

しかしながら、そうした風潮とでも言うべき内容は「イラン・イラク戦争」終結とともに再び原油価格の下落傾向が復活することになります。

こうした中、1992年にエクアドルが、1994年にはガボンがOPECを脱退しました。

ここに、OPECの果たす役割が地に落ち、その崩壊が本格化した時代でした。

OPECの復権

さて、OPECとしてもこうした状況を打開するために、加盟諸国とのネゴシエーションを強め、ついに、1999年には全加盟国に対して生産調整を守らせることに合意、原油価格を上昇させることに成功しました。

2000年代に入っても、この基調は継続していく結果となりました。

OPECの復権です。

しかし一方では、2003年に発生したイラク戦争「湾岸戦争(Gulf War)」により、再び石油価格が上昇に転じ、その速度が増していく結果になりました。

当時は、この不安定な中東情勢や新興諸国(BRICs)における石油需要の増大化によって、原油価格は上昇の度合いを強めました。

結果的に、再びOPECの世界に対する発言力が増す結果になりました。

つまり、世界最大の産油国群を擁したOPECは、その政治状況に影響を受けつつも、乱高下する原油市場に対し大きな影響力を再び持つようになってきたということになります。

その後も、OPECによる増産規制が継続し、一時期の安値時期を経て2008年(平成20年)1月には1バレル100ドルを突破するに至ります。

その後も、同年8月には1バレル147ドルの高値を付けるまでになりました。

その後も、OPECによる増産、減産のコントロールが持続しましたが、その間の原油価格の乱高下には世界経済が振り回されたと言えるでしょう。

我が国日本でも、毎日ガソリンスタンドのガソリン価格が変化し、消費者としては1円でも安いガソリンスタンドを見つける為四苦八苦した時代でした。

ちなみに、それまでの日本のガソリンスタンドでは、価格表示は店内の一部に掲示する程度でしたが、日替わりのように価格が変化することで、電光掲示板で屋外広告として出すようになったところも多く出てきたのがこの時期です。

歴史は繰り返す ~石油価格の暴落~

2014年(平成26年)ごろまで続いた石油価格の暴騰は、以下の理由により一変して暴落傾向に移行しました。

① 石油価格高騰を好機ととらえたOPEC非加盟国による増産

② BRICsを代表とする新興国の経済成長に鈍化の傾向が表れ石油需要が減少傾向に

③ アメリカにおけるシェールガス革命の本格始動による原油の増産体制確立

以上の3つの理由で、原油価格は低下し始めることになります。

ここで、OPECは、加盟国全体として、日産3,000万バレルという生産量に据え置くことで、特に③のアメリカにおけるシェールガス革命に対抗しようとしました。

この時OPECが対抗しようとした裏には、シェールガス油田ではコストが高く、コスト競争を行えば必ずOPEC側が勝利するとの予測から判断したものでした。

しかし、以下の二つの理由で石油価格は暴落を続けることになります。

① シェールガスによる原油生産コストがOPECの想像以上に安価についたこと。

② コスト競争に付いて行けなくなったOPEC加盟国が増産に踏み切ったこと。

これらの利用により、2015年12月時点では、1バレル36ドルという暴落を示す結果になりました。

その後も、OPEC加盟国間での協調体制は崩れ、減産できない状況に置かれたことで在庫過剰を呈してきました。

更に拍車をかけたのが2015年12月にシェールガス革命により一大産油国に復帰したアメリカが、原油輸出を解禁する政策に転換、約40年ぶりに石油輸出国になったという出来事でした。

また、2016年11月には、イランの核開発に関連した経済制裁が解除されることで、イランの石油も市場に出回るようになり、原油価格の暴落は長期化していくことになりました。

こうした状況に陥ったOPECは、2016年11月に約8年ぶりに原油減産に関する協定を加盟国間で締結することになります。

原油価格はその後も低位安定状態のまま継続しました。

OPECの歩んできた道と今後の課題

以上、現代にまで至るまでの歴史的なOPECの歩みを見てきました。

中東地域という特殊な地域柄、その結びつきが強いのか、時代とともに繰り返される原油価格の乱高下が巻き起こり、化石燃料に依存する先進国や新興国の経済、社会に多大な影響を与え続けてきたことは確かです。

現在、地球環境会議(COP21)などで脱化石燃料が叫ばれる中、太陽光、風力、潮力、地熱などの自然エネルギーに対して更に注目が集まっています。

つまり、化石燃料で経済を成り立たせていたOPECにとっては、時代の潮流とは逆であり、長いスパンでは存続にかかわる大問題であることは間違いないと言えるでしょう。

本コラム冒頭にも紹介しましたように、OPECは“Organization of the Petroleum Exporting Countries”(石油輸出国機構)の略称ですが、「石油輸出”Petroleum Exporting“」の部分が将来変わるかもしれません。

安易に化石燃料という天然の恵みを餌にして成長してきた加盟国ですが、今やその餌を変える必要に迫られていると言っても過言ではないようです。

今ある石油資源から得られる利益を、そうした異なった資源を開発するために使うということが現在徐々に拡大しつつあります。

中でも、太陽光発電による電力供給システムの開発や観光資源開発のための都市開発などが行われ、更に砂漠緑化の試みなども現在進行形で進んでいます。

しかし、いくら脱化石燃料と言っても世界の動力のほとんどが化石燃料に頼っている現状から石油への需要が突然大幅に減少することはありません。

では、OPECとして今後歩むべき道筋はどのようなことが考えられるでしょう。

宗教的にはイスラム教という厳格な宗教で統一されてはいるものの、分派相互に反目し合っているという現実があります。

こうした宗教間、民族間、派閥間、国家間の利害を越えて中東地域として穏健なまとまりが望まれています。

国家間の信頼関係を醸成し離合集散を繰り返すことなく、持続的で穏当な石油輸出を行うことが必要です。

結果、国際的信用も向上し、何らかの協調路線を模索しやすくなります。

永い歴史の中に合って、決して人間にとって暮らし易い自然環境ではない地域です。

いわゆるオイルマネーを天恵として、住みやすい街づくり、永続的な産業の育成などが今後大きく求められます。

例えばアメリカの歴史的事実として、開発されたラスベガスなど、元々は砂漠の中にある寒村から今の状況を作り出しています。

中東でもアラブ首長国連邦のドバイ等はその良い例として見ることが出来ます。

今後OPECの果たす役割は、中東における地域生活レベルの向上と持続が大きな課題となります。

またそうした高邁な目標を掲げることでOPECの加盟国からも尊敬される組織となると思われます。

OPEC
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