海部俊樹元内閣総理大臣の功績とは?息子後継者はいるのか?

内閣総理大臣

今回は、約30年前の1990年前後、具体的には第76代、および77代の内閣総理大臣を務めた、海部俊樹元総理大臣に関してご紹介していきたいと思います。

2019年12月現在、日本の内閣総理大臣を務めているのは安倍晋三となります。

安倍首相は第96代と97代の内閣総理大臣を務めています。

海部俊樹元総理大臣がどのような功績を残していて、後継者がいるのかどうか、といったことについて掘り下げていきたいと思います。

海部俊樹海部俊樹元総理大臣の経歴

海部俊樹氏は、冒頭で述べた通り、第76・第77代の内閣総理大臣を務めた人物です。

1931年(昭和6年)に誕生、1952年(昭和27年)に早稲田大学法学部に編入しています。

その後1960年(昭和35年)に衆議院議員に初当選を果たします。

この時、海部俊樹元総理大臣は29歳であり、全国において最年少の代議士となりました。

その後1974年に三木武夫内閣の内閣官房副長官となります。

1976年(昭和51年)には福田赳夫内閣のもと文部大臣に就任、1989年(平成元年)に第76代の内閣総理大臣に就任します。

これが第一次内閣で、1990年(平成2年)からは第77代の内閣総理大臣を務めました。こちらが第二次内閣となっています。

海部俊樹元総理大臣の功績

海部俊樹元総理大臣の功績としてまず挙げられるのが、1979年度の共通一次試験の導入です。

共通一次とは、大学入学のために基礎学力を判定するための共通試験で、正式名称は国公立大学入試選抜共通一次学力試験と呼ばれます。

共通一次試験が導入されるに至った経緯をご紹介したいと思います。

共通一次以前が導入される以前については、まず1947年度から1954年度の間に進学適性検査と呼ばれた適性検査が実施されていました。

ただし受験者の負担が大きいことや、検査管理における問題などを理由にこの検査は廃止されることとなります。

進学適性検査の次に実施されたものが、能研テストと呼ばれる試験でした。

しかし、大学側が消極的であったことや、受験者数の減少、そして財政上の理由が重なりこちらも廃止されることとなります。

以降の入試においては、一度の学力検査で合否が決定する傾向がみられました。

そして共通の試験が無くなったことによって、大学が出す試験が合否を決めることとなったわけですが、高等学校にて学ぶ範囲を逸脱した試験内容が問題視されるようになります。

これらの事情を踏まえて、新しい共通試験の導入が検討されることとなります。

その際参考にされたものが、国立大学協会における調査研究や、文部省の報告などです。

ここで共通第一次学力試験の詳細をご紹介したいと思います。

対象とするのは国公立大学の入学を志願する者であり、日時は全国で統一されました。

共通一次においては、従来の試験でも問題として取り上げられていた、大学が独自に設定した問題が高等学校へ好ましくない影響を与えるというものを解消する意味合いがありました。

実際、高等学校の教育でどの程度の学力に到達したのかということを評価することができるようになり、加えてこの共通一次の後に行われるそれぞれの大学の試験に関しても、検査科目が減ったほか、面接や推薦入学、特別選抜など、入学者を選別する様々な手段の生まれるきっかけとなった点も評価されています。

大学の序列化や、改革はあくまで国公立大学の範囲にとどまったことといった批判もありましたが、上記のように良い影響があったのも間違いないと言えるでしょう。

第39回衆議院議員総選挙での大勝

第1次海部内閣が発足したのは1989年の8月10日です。

その発足後に内閣官房長官であった山下徳夫のスキャンダルが発覚します。

この際、海部俊樹内閣総理大臣は山下内閣官房長官を更迭します。

その後1990年には第39回衆議院選挙が行われました。

前年の1989年には、第15回参議院議員通常選挙が開かれており、その時の内閣総理大臣は宇野宗助です。

この参議院議員選挙において焦点とされたのが、竹下内閣で発覚したリクルート問題、消費税、宇野宗助の女性問題です。

日本社会党が多数の議席を獲得したことによって、与野党の議席数が逆転します。

具体的には与党の獲得議席が36、野党・無所属が90となりました。

第39回の衆議院選挙においても、野党は前述した第15回参議院議員通常選挙で争点とした消費税導入を今回も取り上げ、過半数を狙っていました。

しかし、消費税導入に反対する有権者が減った結果、この衆議院選挙では自民党が大勝することとなります。

最終的には与党が275議席、野党・無所属等が237議席と、今度は与党が過半数となったのです。

この結果、第2次海部内閣が発足することになります。

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日米首脳会談

海部俊樹元総理大臣の初訪米は、1989年の9月1日となります。

訪米した理由は、日米首脳会談に臨むためです。

この頃問題として挙がっていたのが、通商問題に関するアメリカの硬い姿勢です。

日米間の貿易に関して、日本経済の構造自体が問題であるとブッシュ大統領は主張していました。

先に述べた日米首脳会談において海部首相は、1990年春に成果を出したいという旨をブッシュ大統領から伝えられることとなります。

これらの出来事の発端は、海部首相の前に内閣総理大臣を務めていた宇野宗助首相とブッシュ大統領の間で合意された、日米構造協議となります。

1990年4月6日には、日米構造協議の中間報告が取りまとめられます。

また、その後同年の6月28日には最終報告が取りまとめられます。

この最終報告においては、1991年から日本が公共投資を拡大することや、大規模小売店舗法の規制緩和などが決定されました。

公共投資に関しては、具体的には10年間で430兆円に拡大するものとされています。

前述の大規模小売店舗法とは、1973年に施行された法律です。

店舗面積の広い大規模な小売店舗が出店することによって、その周辺に立地している中小小売業者への影響を抑える目的で施行されたものとなっています。

その後2000年に大規模小売店舗立地法が施行されるまでの間、この法律が敷かれていました。

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ヒューストン・サミット

続いて、ヒューストン・サミットについて説明します。

ヒューストン・サミットは第16回先進国首脳会議の通称であり、このサミットは1990年7月9日から11日まで、アメリカのテキサス州ヒューストンにて開催されたものとなっています。

このサミットに参加した首相は、アメリカがブッシュ大統領、フランスがミッテラン大統領、イギリスがサッチャー首相、ドイツがコール首相(当時は西ドイツ)、イタリアがアンドレオッチ首相、カナダがマルルーニー首相、EUがドロール委員長、そして日本が海部首相です。

海部首相にとってのサミット出席はこれが初めてのものとなりました。

日本にとって一つ問題となっていたのが、中国の円借款です。

前年の1989年に中国において天安門事件が発生します。これによって経済制裁を行っており、対中ODA(政府開発援助)は大きく減少していました。

天安門事件以後、日本だけでなく様々な国からの経済制裁によって孤立がより深まっていた中国でしたが、そんな中動いたのが日本となります。

海部首相は天安門事件後凍結していた、対中円借款を再開することを宣言したのです。

それを受けた中国は日本を高く評価しました。

湾岸支援

第2次海部内閣における出来事のうち大きなもののひとつとして挙げられるのが、湾岸支援です。

1990年8月2日、イラクがクウェートを侵攻したことが契機となって、湾岸戦争が勃発します。

1991年1月には多国籍軍のイラクに対する攻撃が始まることとなります。

多国籍軍とは、広義においては複数の国の軍隊により構成される国際軍のことを指しますが、湾岸戦争においては、アメリカ軍とその同盟軍のことを指して呼ばれます。

そして多国籍軍は1991年1月には70万人にまで拡大することとなります。

日本政府・自民党は1991年1月24日に首相官邸で首脳会議を開きます。

ここにはもちろん海部首相も出席していました。

この首脳会議においては3点の事柄が決定されることとなります。

一つが、前述した多国籍軍に対して90億ドルの資金協力を行うということです。

二つ目が、法施行令を改正して自衛隊輸送機を派遣するということ。

三つ目がアジア系被災民の帰国援助(民間機の派遣)を行うということです。

紛争地域に自衛隊機を派遣するのは初の出来事であり、これをきっかけとして日本は以後、武力紛争へ巻き込まれる危険性の少ない地域を主として、非武装もしくは軽武装の要員や部隊を派遣するようになります。

より詳細を説明すると、この1月24日の首脳会議には、海部首相をはじめとした、橋本大蔵大臣、中尾通商産業大臣、小沢氏などが出席しています。

海部俊樹元総理大臣が、前述した支援策に関して90億ドルの追加協力といった支援策を提示し説明しました。

異論が出ることはなく、会議は速やかに終了したとの報道がされています。

日本は130億ドルの資金を多国籍軍へと支援することとなったのですが、「カネだけ出して汗をかかない国である」と日本は批判されることとなります。

穏健派であったと自任していた海部俊樹元総理大臣は派遣に対して慎重な姿勢を保ってきていましたが、アメリカの要請であったり、自民党内の声があったりしたため自衛隊の掃海部隊を派遣する決断をすることとなります。

その後1991年の4月には、自衛隊として初の海外任務となるペルシャ湾への掃海艇派遣が行われます。

この派遣は4月から11月まで行われました。

国際平和協力法案の提出

ここでは国際平和協力法について紹介したいと思います。

国際平和協力法とは、国際社会の平和と安定のための協力に関することについて定めた法律となっています。

協力は大きく「国際連合平和維持活動」「人道的な国際救援活動」「国際的な選挙監視活動」の3つが定められており、人的協力のほか物資協力に関しても取り決めが成されています。

1990年10月16日、海部首相は国会に国際平和協力法案を提出します。

最終的に法案は審議未了、廃案となりますがその後の国際平和協力法の成立へのステップになったと言えるでしょう。

国際平和協力法は1992年の6月に制定されることとなります。

国際平和協力法制定のきっかけとなったのは、湾岸戦争です。

海部俊樹元総理大臣が国際平和協力法案を提出したのは1990年10月3日で、その翌年の1月24日には、先にも述べたように、日本政府は多国籍軍に対する資金援助を行っていました。

しかし資金だけ支援を行っているとの批判を受けたことがきっかけとなり、海部俊樹内閣で一旦は廃案となったものの、その後宮澤喜一内閣において可決、成立します。

湾岸戦争関係で日本政府は自衛隊を海外に派遣したことは紹介しましたが、その際日本社会党、日本共産党、社会民主連合などの反発を受けることとなります。

欧州歴訪

1991年1月8日、海部首相は西ドイツ、ベルギー、フランス、イギリス、イタリア、バチカン市国、ポーランド、ハンガリーを訪問します。

ベルリンの壁が崩壊してから、西側先進国の首脳の中では初となる現地の視察でした。

この欧州歴訪後の17日に、ブダペストにおいてネーメト首相とともに記者会見を開いています。

海部俊樹元総理大臣はこの会見のはじめに、欧州歴訪について総括し、欧州の新秩序形成に日本が一端の責任を担う目的が果たせたと話しています。

日本とソビエト連邦との関係については、訪ソビエトにて示された方向を歓迎すると述べ、関係改善にも意欲を示しました。

ネーメト首相はココム規制について言及しました。

ココムとは、対共産圏輸出統制委員会と呼ばれるもので、冷戦中に資本主義主要国の間で設立された機関になります。

設立目的としては、共産主義諸国へ向けた輸出を統制するためでした。

この機関に加盟している国から共産主義諸国へと禁輸品目を輸出する場合にはココムの全会一致の承認が必要とされました。

ネーメト首相は合弁企業が少ないことにはココムの規定による影響があると述べ、この首脳会談においてココム規制の合理化に関する表明を行った海部首相の発言を評価しています。

ゴルバチョフ大統領の初来日

ゴルバチョフ大統領は、旧ソビエト連邦の最後の最高指導者になります。

1991年4月16日にゴルバチョフ大統領は初来日し、海部首相と会談を行いました。

この会談においては、日ソ共同声明に署名がなされました。

この声明においては、択捉島、国後島、歯舞諸島、色丹島と千島を初めて文書の形で明記し、領土問題として解決されるべきものであることが示されました。

また、それに加えて日本は北方四島が日本に属するものであることが確認されれば、返還に関わる様々な事柄について柔軟に対応するという方針を固めました。

また、双方は、少なくとも年一回、さらに必要な場合においては追加で協議を行うこととしました。

日本とロシア間の国際紛争は平和的手段によって解決されることも原則の指針とすることが確認されています。

また、この会談においては先に述べた湾岸戦争に関する事柄についても言及されています。

湾岸戦争による危機について、国際社会の連帯・協力がクウェートの解放という成果を可能としたという認識を改めて共有し、イラク地域の平和と安全を早期に解決する必要があるということでコンセンサスを取っています。

日ソ共同声明の最後の項目(24)においては、旧ソビエトから、地域の経済発展を促す目的で日本の行っていること、そしてその貢献について積極的な評価がなされています。

国連軍縮京都会議

1991年には、京都において国連軍縮京都会議が開催されました。

国連軍縮京都会議とは、国連軍縮局が開催している会議になります。第1回の会議が開かれたのは1989年になり、開催場所は京都でした。

その後1990年に仙台で開かれ、1991年に再び京都で開催されることとなります。

軍縮会議といえば、冷戦の起こっていた最中に発足したもの(通称としてジュネーブ会議と呼ばれることがある)が有名ですが、その軍縮会議と違う点として、参加する者が挙げられます

ジュネーブ会議のほうでは政府の代表者が参加するかたちになりますが、国連軍縮京都会議においては、政府関係者やジャーナリストなどが参加、自由に議論を行うこととなっています。

この国連軍縮京都会議において海部俊樹元総理大臣は、通常兵器の移転報告制度を国連総会へ提案する意向を表明しました。

この制度は、通常兵器の国際移転を管理抑制するためのもので、後述するロンドンサミットにおいても動きがあります。

第17回主要先進国首脳会議

1991年7月15日、第17回主要先進国首脳会議、通称ロンドンサミットが開催されました。

参加した首脳は、日本が海部首相、アメリカがブッシュ大統領、イギリスがメイジャー首相、フランスがミッテラン大統領、ドイツがコール首相、イタリアがアンドレオッティ首相、カナダがマルルーニー首相、ECがドロール委員長とルッベンス・オランダ首相となっています。

このサミットにおいては、世界的パートナーシップの構築と、国際秩序の強化などの決意が表明されました。

経済に関しては、インフレがなく、かつ持続的成長を達成するための経済政策に関して言及されました。

途上国に関しては、「よい統治」の原則を確立することと、支援の継続が必要であることが記されます。

政治に関しては、より確固たる国際秩序を形成するために多数国間のアプローチをとるべきであることが示されました。

このサミット終了直後に、G7の首脳とゴルバチョフ大統領との会合も行われます。

サミットにおいて海部首相は通常兵器移転の報告制度の国連総会提案を提唱します。

その後1992年12月に「国連軍備登録制度」が国連総会にて成立されることとなりました。

この制度が成立したことによって、様々な成果が出ました。

輸出国と輸入国が登録することによって、検証が可能となったことや、SIPRIのデータにない移転も明らかになるようになりました。

SIPRIとは、Stockholm International Peace Research Institute:ストックホルム国際平和研究所のことで、軍縮促進を目的に設立された調査研究機関となっています。

この機関から毎年発表されているSIPRI年鑑は、軍事費や兵器の生産・移転といった情報を整理したものとなっています。

このSIPRIにない移転データも判明しているということで、成果は確実に出ていますが、それぞれの国が全ての情報を出しているというわけではありません。

日・EC首脳会談

1991年7月18日、第1回日・EC首脳会談が開催され、海部俊樹元総理大臣も出席しています。

この首脳会談においては、初の日・EC共同宣言が発表されました。

それまでの日本とECとの関係は、例えば日本とアメリカとの関係と比較して、密接な関係にあるというわけではありませんでした。

しかし冷戦の終結に伴い(1989年にゴルバチョフ大統領とブッシュ大統領により冷戦終結の共同宣言が発表されています)、ヨーロッパとの関係は世界秩序を築くために本宣言が提案されることとなります。

以下、共同宣言のより詳しい内容について紹介します。

まず「対話および協力の目的」ですが、日本およびECは、可能である協力分野をともに探求することとし、両者の関係について公正かつ調和的な方法で協力の強化に努めることとしています。

より具体的には、以下の項目が挙げられます。

まず、国際的または地域的な関係悪化・争いの起こりそうな状況を、交渉によって解決すること、そして国連やその他国際機関を強化することです。

そして、核兵器や化学兵器、生物兵器の不拡散や、ここまでにも述べてきた通常兵器の国際移転のような国際的問題における政策協議や政策調整といった事柄もあります。

そして、対話および協議の枠組については、継続的な対話を行うこととし、既存の定期的な協議メカニズムを活用しつつ、強化していくことが決定されました。

特に、日本とECが、日本国総理大臣と欧州理事会議長およびEC委員会会長との間で、年次協議を開催することとなりました。

また、日本政府とEC委員会間で閣僚級の会合を継続して毎年開催すること、日本の外務大臣と欧州共同体加盟国の外務大臣、またEC委員会の対外関係担当委員との間では半年ごとに協議を継続して開催することも合わせて決定しています。

小選挙区比例代表並立制

続いて、小選挙区比例代表並立制について紹介します。

この制度の導入に関する議論が行われたのが、1991年9月13日に開始した衆議院政治改革特別委員会となります。

この特別委員会は、1994年12月まで日本の衆議院と参議院に設置されていたものであり、設置理由としては政治改革4法の法案成立といったことについて議論するためとなっていました。

政治改革4法とは、小選挙区比例代表並立制導入を根幹としている公職選挙法改選案、政治資金規正法改正案、政党助成法案、衆院選挙区画定審議会設置法案の4つの法案のことを指しています。

海部俊樹元総理大臣は、小選挙区比例代表並立制の導入を柱としている「政党・政策本位の選挙実現」といったことを強調しましたが野党のみならず与党からの反対も受け、審議未了の扱いとなります。

では、小選挙区比例代表制について詳しく説明していきたいと思います。

まず、小選挙区比例代表制という仕組みの前には、衆議院議員総選挙においては中選挙区制という仕組みが存在していました。

まず中選挙区とは、大選挙区と小選挙区の中ほどにあたる大きさのためこういう名称となっています。

大選挙区は、議員2名以上を選出する選挙区のことで、小選挙区は1選挙区から1名の議員を選出する選挙区です。

そして、単記投票制と呼ばれる、有権者が候補1人のみに投票可能な取り決めとなっていました。

そして、合計得票数の多い順から定められた数の候補者が選出されることとなっていたのです。

中選挙区制が採用された理由としては、小選挙区制度と大選挙区制の欠点を補うためとされています。

小選挙区における欠点としては、死票が多くなることや、少数党に不利であるということが挙げられます。

大選挙区における欠点としては、多数の当選者が出ることから多数政党に有利になること、政権交代が起きにくいといったことが挙げられます。

しかし、中選挙区制においてもデメリットは指摘されていました。

まず、同一政党の議員同士の戦いが起こる可能性が高く、政党同士の争点に重きをおいた選挙となりにくいという問題があります。

また、同一政党の議員同士の戦いが生じることによって、政党の中に派閥が発生する原因となってしまうことも挙げられています。

このようなデメリットを踏まえ、小選挙区比例代表並立制という仕組みが提案されることとなったのです。

小選挙区比例代表並立制においては、有権者が1人2票を持っていることが特徴となっています。

そして小選挙区と、比例代表区の選挙を同時に行います。

小選挙区においては、有権者は候補者の名前を、比例代表区については、政党名を記載、投票します。

比例代表制とは、前述した大選挙区制の1つであり、それぞれの政党の得た票の割合に比例して議席数の決定する方式となっています。

小選挙区比例代表制を導入することで、小選挙区のデメリットである多数の死票を減らすことができるというメリットが存在します(政党に投票を行うため)。

残念ながら海部俊樹元総理大臣の在任中にこの制度が改正されることはありませんでしたが、その後1994年に公職選挙法の改正により採用される土台の一端を担ったと捉えることができるのではないでしょうか。

海部俊樹元総理大臣内閣支持率

1990年9月1日の時点で、海部内閣の支持率は当時歴代最高の64%を記録しています。

退任直前であっても56%の内閣支持率を記録しており、広く国民の支持を得たということがデータからもわかります。

また、首相としての在任日数は818日であり、衆議院で内閣不信任決議案が採決されなかった内閣の首相としては最も長い日数でもあります。

息子後継者はいるのか

海部俊樹氏には息子の海部正樹がいます。

海部正樹氏はディレクターやアニメプロデューサーを務めており、本人のメルマガにおいて、「親は嘆いたことでしょう」と述べています。

このことから、息子が政治家の後継者とはならなかったということが窺えます。

有名人であれば、後継者の有無について気になる方は多いかと思います。

今回は、息子以外に後継者がいるのかについて調査してみても、メディアからはそのような情報が発信されていないということがわかりました。

本人の経歴を追ってみると、海部俊樹氏自身が後継者として出馬したことはあります。

1960年に行われた第29回衆議院議員選挙において、河野孝子の後継者として出馬した時のことです。

後継者がいるのではないか、という噂が出ていたとするならば、この情報を逆転して捉えたという可能性も考えられると思います。

いずれにしても、確かな情報源から海部俊樹の後継者がいるという情報が発信されている様子はないので、後継者がいるのか興味のある方は、メディアから正式が情報が発信されるのを待つのが現時点では最良だと考えられます。

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海部俊樹元総理大臣まとめ

海部俊樹氏は第76代、第77代内閣総理大臣を務めた人物です。

内閣総理大臣になる前の功績としては、大学入試の「共通一次」の導入が有名なものとなっています。

また、氏は昭和生まれの人物としては初めての内閣総理大臣になりました。

第一次海部内閣においては、天安門事件を受けて世界から孤立していた中国との間で円借款を再開し、中国より評価を得ます。

1990年に端を発した湾岸戦争においてはアメリカ軍を主とする多国籍軍への資金援助を行います。

資金だけ援助を行っているという批判を受け、初の自衛隊の海外派遣ともなっています。

これに関連して国際平和協力法案を提出もしています。

海部俊樹元総理大臣の在任中にはこの法案は可決されませんでしたが、退任後に成立するためのきっかけを作ったことは非常に重要であったということが言えるでしょう。

ゴルバチョフ大統領とも対談しており、そこでは日ソ共同宣言が署名されています。

北方領土に関する協議についてのはしりとなったこの出来事も大切な点でした。

ロンドンサミットでは通常兵器移転に関する国連総会提案を提唱し、それはその後初めて開催された日・EC首脳会談においても言及されています。

任期中には成立こそしませんでしたが、退陣後採用された小選挙区比例代表並立制の土台の一端を担ったと捉えることができるでしょう。

また、国民からの支持も厚く、内閣支持率は当時歴代最高の64%を、退陣時においても56%の支持を得ていました。

海部俊樹元総理大臣の息子は後継者として政治家は継がず、別の道を進んだことがわかっています。

息子以外に後継者がいるという噂も一部ではあるようですが、メディアから確実なソースをもってそのような情報が出ていることは確認できませんでしたので、少なくとも公になっている範囲で、後継者がいるということはなさそうです。

国民の高い支持を得た海部元首相は、様々な実績を残しているということがわかっていただけたと思います。

退陣後も人々の興味を引いてやまないことからも、そのことが窺えると言えるのではないでしょうか。

内閣総理大臣
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