細川護熙元内閣総理大臣の功績とは?息子後継者はいるのか?

内閣総理大臣

読者諸兄は覚えておられるでしょうか。

 

1993年(平成5年)に内閣総理大臣になった細川護熙(もりひろ)元総理大臣を。

 

今から30年近く前の出来事で覚えておられない方々の方が圧倒的に多いのではないかと思います。

 

当然、現在20歳代30歳代の方々は、まだ幼かったか、生まれる以前なので覚えていないでしょう。

 

細川護熙氏は名前の漢字が難しくて読めない人も多いと思いますが「もりひろ」と読みます。

 

普通の漢字変換ソフトであるMicrosoft IMEであれば「ほそかわもりひろ」と入力すればそのまま変換してくれます。

 

それほど有名な固有名詞になっているということでしょう。

 

今回のコラムでは、この細川護熙氏を取り上げてみたいと思います。

 

このコラムのアーカイブでは、時宜を得た国際的な話題や国内の大きなテーマを扱ってきました。

 

今回突然細川氏の話題を取り上げたのは、彼の功績が今見直されつつあることと、またその華麗な家系や生き方と言うものに注目が集まりつつあるということがあります。

 

そこで、筆者も再度細川氏について、総合的にそのアウトラインから見直してみることにしました。

 

果たして彼の日本国に対しての功績にはどんなものがあったのかを検証してみたいと思います。

 

そうした中から、後継者の問題等にも触れてみたいと思います。

 

まず、細川氏本人の略歴から論を起こし、彼の政治家としての功績に目を向け、そのバックボーンとなった家系や係累に触れ、彼の後継者に関することをご紹介したいと思います。

 

 

(1)細川護熙氏のこれまでの歩み

 細川護熙氏の生誕

細川護熙氏のそもそもの血筋は熊本県出身となっており、政治家現役当時は熊本県を地盤に選挙戦を戦いました。

 

しかし、出生や育ち、その後の社会人としては、東京都や神奈川県を中心に活動しています。

 

ご存知の方々はよく知っておられると思いますが、江戸時代の熊本藩藩主の末裔であることは有名です。

 

現代社会にあっては、遠くの地元を地盤として首都圏で生活するという一種の違和感を持たれる方も多いと思います。

 

普通は地元に根ざした政治家の場合、地元に住み、東京に出向く形が多いようです。

 

なお、中央政界におられる衆議院議員の方や参議院議員の方は、「金来火来(きんきからい)」という4文字熟語のような生活も多いようです。

 

これは金曜日に地元に帰り土日月を地元の有権者と語らったりして、火曜日に東京に帰ってくるという生活パターンです。

 

現代の政治家の方々の行動パターンをよく表しているともいます。

 

しかし一方、思い出してください。

 

江戸時代200年間は、「参勤交代制」という大きな政治システムがあり、1年ごとに東京(江戸)と国元(熊本)を往復して住まわなければならなたかったことを考えると、違和感は払拭できるでしょう。

 

更に、この参勤交代の場合、大名の妻子は江戸に住まわさなければならなかったことになっていたので、そこで生まれた方々は東京(江戸)生まれと言うことになります。

 

その名残とまでは言いませんが、政治的基盤が熊本県にあり、生活基盤は東京にあるという旧家の名家は多いと言えるでしょう。

 

ともあれ、細川護熙氏の場合、そうした名残もあってか、1938年(昭和13年)1月14日に生誕されました。つまり2019年末現在81歳となられています。

 

先日逝去されました中曽根康弘元首相は、1918年(大正7年)生まれで、101歳という超長寿であったことから比べれば、細川氏などはまだまだ若いということになるのでしょうか。

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②細川護熙氏 学歴

さて、後の項で詳述しますが、いわゆる名家である細川氏ですので、学歴もそれに見合う立派なものを持たれています。

 

神奈川県にある「清泉女学院小学校」から神奈川県横須賀市にあった「栄光学園中学校」を卒業されました。

 

また、旧華族や士族の子弟が多い「学習院高等科」に入学し卒業されました。

 

学習院高等科での同級生には評論家や劇作家として有名な菅孝行氏がおられます。

 

その後、京都大学に入試しますが2回の入試失敗で、最終的に1年浪人後の1957年(昭和32年)に上智大学法学部に入学されることになります。

 

その6年後の1963年(昭和38年)に大学を卒業されています。

 

今では高学歴・高偏差値の学部で狭き門になっている上智大学法学部ですが、当時上智大学に新たな学部として100名定員で新設されたばかりの学部であったことはあまり知られていません。

 

通常京都大学への入試を試みる学生は、早慶等の六大学を併願志望するのですが上智は中々候補にはなかったと言えるでしょう。

 

さらに、2019年現在上智大学出身の政治家の方は16名であり、全国188大学の中でも16番目に多い大学とされています。

 

なお、総理大臣にまで進まれた方は、上智大学出身者にはいません。

 

ちなみに政治家として多い上位の大学は、第一位は東京大学の537人でダントツトップとなっており、第二位は早稲田大学185人で全国2位、慶應義塾大学が128人で全国3位、京都大学が114人で全国4位となっています。

 

このことから、上智大学における政治家希望の方はあまりいないことが分かります。

 

上智大学はカトリック教会が母体となって開学したことから考えると政治家志望者が志望する大学ではないかもしれません。

 

③細川護熙氏 社会人 (サラリーマン時代)

1963年に大学卒業後、朝日新聞社に入社後新聞記者になられましたが、5年後の1968年11月に朝日新聞を退社し、翌年1969年12月に実施された「第32回衆議院議員総選挙」で、熊本県の旧熊本1区から無所属で立候補されました。

 

つまり、サラリーマン生活は、わずか5年間だけでした。

 

その後1998年5月に政界から引退するまでの約30年間について政治に関りを持たれることになります。

 

新聞記者時代には金嬉老事件などの全国的に有名な事件を取材された経験があるとのことでした。

 

④細川護熙氏 社会人 (政治家時代・複雑でない時代)

先ほどもご紹介しましたように、細川氏の場合、1969年(昭和44年)12月に実施された「第32回衆議院議員総選挙」に立候補したことから政治の世界に足を踏み入れることになります。

 

しかし、この初めての立候補に関しては、周囲の影響を受けての行動になったことが裏目に出ることになりました。

 

この初回立候補に関して、落選の憂き目にあいましたが、その後落選とは縁のない政治家人生を歩んで行かれることになります。

 

大学入試でも1年浪人していることからも、一度失敗した後に再び立ち上がるという運命的なものがあるのかもしれません。

 

この時の逸話としては、第一に当時熊本県での政治家として実力者で当時の日本社会党から議員になっていた「松前重義」氏から次回選挙では不出馬の意向を示され、細川氏に選挙出馬を示唆したことがあるとのことです。

 

第二には、細川家における実父である細川護貞氏からは猛反対され、もし選挙に出馬するのであれば家からの支援は一切ないものとするように言い含められ、ある種勘当のような立場に追い込まれたことがあるそうです。

 

なお、この父親である細川護貞氏は細川家第17代当主で、近衛文麿宇内閣で、内閣総理大臣秘書官を務めた経歴がありますが、ご本人は政治家にはならなかったという経緯があります。

 

後述しますが、この近衛文麿氏も細川家とは縁戚関係にあります。

 

第三には、当時の中央政界の有力者であった佐藤栄作氏に面会し、当時の選挙に関する神様と呼ばれた田中角栄氏を紹介され選挙の手ほどきを受けたということ等が上げられます。

 

当時、実弟の細川忠煇氏によれば、細川家次期当主であり実兄の細川護熙氏を称して、「当時は、三笠宮家の長女甯子内親王と結婚したばかりの自分よりも知名度はなかった」と言わせるほど選挙には不利であったということになります。

 

結果、初めての選挙戦では落選に終わっています。

 

その後1年半の地道な地元運動を行った結果、1971年(昭和46年)の「第9回参議院議員通常選挙」では、全国区で立候補し、自由民主党公認候補として当選するに至り、初めて選挙戦に勝ちました。

 

参議院の歴史的な立院テーマである「良識の府」として、元々貴族議院と呼ばれた歴史を持つ議院には向いていたのかもしれません。

 

参議院議員は6年の任期がありますので、この間1975年(昭和50年)には、当時の大蔵政務次官や自由民主党の党参議院副幹事長などの要職に就いたりしました。

 

参議院議員として任期を満了した1977年には「第11回参議院議員通常選挙」において、今度は熊本地方区から、自由民主党公認候補として2期目の当選を果たしました。

 

結果、通算で12年の参議院議員を務めたことになります。

 

さて、ここまでは普通の政治家と同じような来歴になりますが、参議院議員2期終了後に、今度は熊本県知事へと転身します。

 

熊本県知事時代に関しては、地元で細川家の抜群の知名度を活かして2期を務めることになります。

 

いわゆる、「お殿様知事」として地元では有名でした。

 

さらに当時は、日本で最年少の知事として46歳の若さであることも話題になりました。

 

しかし3期目も当然ながら当選確実と目されていましたが、退任を決意することになります。

 

これには、知事権限を執行していた中で、中央官庁による制限や規制に関して痛感することとなり、再び中央政界に進出する覚悟をしたそうです。

 

この当時には、ニュースなどで「バス停の設置場所を数メートル移動させるだけでも運輸省の許可を得るのに大変な手間がかかる」という例えは有名な話になりました。

 

また、別の理由としては、「権不十年」(韓国の故事成語で、同じ者が権力の座に10年以上あるべきではないことを言ったもの)を唱え、1991年2月、2期8年限りで知事を退任することになりました。

 

その後、政治組織活動として、「臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会」部会長として、活動拠点を東京に移すことになりました。

 

翌1992年(平成4年)に新政党として、「自由社会連合」の結党を発表します。

 

さて、細川護熙氏の政治家の歴史を紐解くにあたって、ここからが永田町の世界で派閥や党の領袖との離合集散が頻発します。

 

いわゆる私たち一般庶民からは複雑な時代として捉えられると思います。

 

2019年現在既に解党している政党もあることから、若い方になればなるほど理解しにくいことになりますので注意してください。

 

そこで、ここからの来歴に関しては、別項目として箇条書きにご紹介することにします。

ここでは、事象とその理由や原因を付記することでより簡潔に理解を深めていただこうと思います。

 

⑤細川護熙氏 社会人 (政治家時代・複雑な時代)

 

1992年5月 「日本新党」を立党

アメリカの共和党と民主党のような二大政党制を模して自由民主党と日本社会党の保革対決姿勢では、日本の戦後レジューム(戦後体制とも言います)における行き詰まりを克服できないとして、政権交代可能な保守の二大政党制を作るべきだという主張で立党しました。

 

当時は、各種汚職事件などの「政治腐敗」による「既成政党への国民不信が盛り上がり、反面国政での政治改革・行政改革の遅滞が国民の批判に晒されている時代でした。

 

1992年7月 第16回参議院議員通常選挙に比例区で出馬

この選挙により、細川護熙氏を含めて当時ミニ政党としては過去最高の4議席を獲得することになりました。

 

1993年5月 宮澤喜一内閣が総辞職

政治改革に関する諸政策を宮澤首相が発表するも反対勢力により潰されてしまい、逆に首相不信任決議に基づき、解散総選挙の道が選らばれることになりました。

 

1993年6月 多数の有力議員が自由民主党離党によりミニ政党時代に入る

この時、羽田孜(つとむ)氏や小沢一郎氏らにより「新生党」が結党され、同日に、武村正義氏、鳩山由紀夫氏により「新党さきがけ」が結党されました。

 

細かくなりますが、この新党が結成されたのが6月21日でしたが、東京都議会議員選挙がその1週間後の6月27日に投開票されたました。

 

この時、細川護熙氏率いる日本新党は東京都議会において20議席を獲得するまでに成長し、来る国政の総選挙に明るい見込みができました。

 

細川氏本人は、「制度改革研究会」に運営委員として参加しています。

 

この「制度改革研究会」は、武村正義氏や田中秀征氏が主導した行政改革を検討する研究会でした。

 

1993年7月18日 第40回衆議院議員総選挙が実施される

この時の総選挙の結果、自由民主党223議席、日本社会党70議席、新生党が55議席、公明党51議席、日本新党35議席、民社党15議席、新党さきがけ13議席、社会民主連合4議席、日本共産党15議席、無所属30議席で総数511議席の構成が成立しました。

 

この数字を見ても、過半数である256議席を自由民主党は大きく割り込んでしまいました。

 

結果、新党として立ち上がった新生党、日本新党などがキャスティングボードを握る状態になりました。

 

この時、細川氏は参議院議員より衆議院に鞍替えし、熊本選挙区で圧倒的優位をもって当選しました。

 

この時には。今の東京都知事である小池百合子氏も日本新党のメンバーとして兵庫で当選しています。

 

1993年7月23日 「特命政権」樹立を提唱

第40回衆議院議員総選挙の結果、自由民主党の凋落ぶりが明確になったことを受けて、新たに立ち上がったミニ政党と呼ばれた政党間での駆け引きが行われることになりました。

 

短期間の紆余曲折を経た結果、衆議院議員の院内会派である「さきがけ日本新党」が「政治改革政権を提唱する特命政権構想」を公表しました。

 

これにより、細川氏を首相とする構想が持ち上がりました。

 

この時同じミニ政党として新生党を立ち上げた小沢一郎氏とは異なる路線を選択したということになりました。

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1993年8月9日 細川護熙連立内閣が成立

さて、永田町内での出来事は一般庶民の私たちに見える部分は氷山の一角で、水面下での多くの工作の結果、このような状況になったことは諸兄も認識するところだと思います。

 

当時連立を組んだ政党は、日本新党・新生党・新党さきがけ・社会党・公明党・民社党・社会民主連合と参議院議員内の院内会派である民主改革連合との8党に上りました。

 

当時は反体制的なマスコミや一部識者からは、「8頭立ての馬車」とか「ガラス細工の連立」などと揶揄されることになりました。

 

しかし、一方で国民支持率は戦後最高の70%を超える支持率を得たことは国民の新政権への期待度の表れと既成政権であった自由民主党への反発とが合わさった結果だと言えます。

 

1994年4月8日 細川護熙首相が辞任

細川護熙連立政権は成立後1年にも満たず首相辞任という事態になりました。

 

この9か月足らずの間には数々の功績がありましたので、後の項に譲りここでは、事象のみ記載することにします。

 

1994年12月 「新進党」結成

細川氏の後に首相の座についた羽田孜内閣も短命で終わり、村山富市内閣が誕生しました。結果、次期総選挙を有利に進めるために日本新党、新生党、公明党、社民党が合流し新進党を結成しました。

 

1995年7月 第17回参議院議員通常選挙で新進党勝利

細川氏は、新進党党首海部俊樹氏や羽田孜氏とともに首相経験者3人組で政権交代可能な二大政党の一つであることをアピールし、「三総理作戦」と呼ばれました。

 

1995年12月 新進党党首小沢一郎就任

小澤一郎氏が党首に就任すると、その強権的な手法などで離反者が続出し、1996年の第41回衆議院議員総選挙前には鳩山邦夫氏・船田元氏・石破茂氏らが離党してしまいました。そうした内紛劇があり衆議院選挙には惨敗する結果になりました。その後も離党者相次ぎ、細川氏も1997年6月に離党するに至ります。

 

1997年12月 新進党解党

新進党は、小沢一郎氏の決断により、解党消滅し自由党、国民の声、改革クラブ、新党平和、黎明クラブ、新党友愛の6グループに細分化することになりました。同月細川氏は、新党「フロム・ファイブ」を立ち上げ、細川氏を代表者として、樽床伸二氏、上田清司氏、円より子氏、江本孟紀氏の5名で結成しましたが、1か月もたたないうちに解散になりました。

 

1998年1月 民主友愛太陽国民連合(民友連)」を結成

旧民主党、新党友愛、太陽党、国民の声、民主改革連合とともに野党共闘を目指す勢力として院内会派を結成しました。

 

1998年4月 新民主党を結成

これより前に、民友連を構成する羽田孜らの太陽党、国民の声との三党合併により民政党が結成され、それを母体に新民主党の名称で結党されました。

 

1998年5月 細川氏政界引退

還暦60歳を迎えるにあたり、一つの区切りとして政界からの引退を宣言しました。その後、陶芸家として創作活動に入る傍ら、各種財団法人理事長や理事等を務めていました。

 

2014年2月 東京都知事選に出馬・落選

この時は、ある意味驚かれた方々も多くいたと思います。

 

総理大臣経験者が知事選挙に立候補したのは日本国憲法下で初の例になったことからも驚きをもって見られたと思います。

 

この時の対抗馬としては舛添要一氏、 宇都宮健児氏等が候補者として名を連ねていました。

 

多くの有名人や団体から支援の声があったものの、結果3位の得票率で舛添要一氏が都知事に就任することとなりました。

 

その後、政界への復帰は2019年末現在82歳になられて、その噂は聞こえてきません。

 

以上のように、細川氏が中央政界に在籍していた時期は、今見直しても誰がどの党でどういう政策を行っていたのか、単にイデオロギーの相違による離合集散なのかが皆目わからなくなってきます。そうした中、総理大臣就任時の前後には、細川氏独自の功績や記録がありますので、それを次項に列挙します。

(2) 細川護熙氏の政治的新記録と功績

次に、細川護熙氏の政治的な新記録と功績についてご紹介したいと思います。

 

今から20年近く前の話ですので覚えている人は少なくなりましたが今一度振り返ってみてみます。

 

主な記録は、首相着任時のものとなり、功績は1年足らずの首相在任中の事績と言うことになります。

 

【新記録】

 

① 1983年当時、都道府県知事で最年少の46歳で就任したこと

② 戦後の公選知事経験者での首相就任は史上初(2019年現在も唯一例)だったこと

③ 衆議院議員当選1回での首相就任は1948年の吉田茂首相以来45年ぶりだったこと

④ 閣僚経験のない政治家の首相就任は1947年の片山哲首相以来46年ぶりだったこと

 

以上が、当時取り沙汰されて世間の耳目を集中させた記録になります。

 

【功績】

 

① 55年体制の打破

今では、あまり聞かれなくなった「55年体制」を打破したことが最も大きな功績になっています。

 

これは、戦後自由民主党1党で揺るぎない国会運営を行っていた体制のことを示します。

 

どのような組織も長年同じ組織や機構であれば内部から腐敗していくとの例に漏れず、汚職や金権問題などが世論の不満や不平を増加させることになりました。

 

その結果、時期を得てミニ政党乱立時代に突入させたのが細川氏でした。

 

当時、賛否両論あったにせよ時代の変革をもたらした功績があるということでしょう。

 

② アジアにおける加害責任を公式文書で認めた

首相在任の1993年8月15日の終戦記念日に、日本武道館の「戦没者追悼式典」において首相として初めて「日本のアジアに対する加害責任」を表明する文言を挿入した辞を述べた功績があります。その後、こうした内容が一般的な認識になったことは今も続いていると言って良いでしょう。

 

③ 食糧管理法(食管法)の改正によりコメの国内自由流通化を実施

今では当たり前になったコメの自主流通ですが、それまでは食管法により政府の統制下に置かれ、売れ残った古米、古々米等の問題が一般化してきた時代でした。そこで、多くの農業関係者の反対があったものの、コメ市場の部分開放を決断したことは、現在の流れの起点にもなる功績があります。

 

④ 政治改革に関する一応の終結を見る

それまでの数年間議論の的になってきた政治改革ですが、種々紆余曲折の結果、選挙区300、比例代表(地域ブロック)200の小選挙区比例代表並立制として成立させました。長年にわたり何度も頓挫してきた新たな選挙制度を実現させた功績があります。この時に制定した小選挙区制や政党交付金制度は2019年現在脈々と受け継がれており、定数問題のみが取りざたされている程度になります。

 

⑤ 首相スタイルの革新

功績と言えるかどうか分かりませんが、一般国民にとって首相像と言うものが一新された功績があります。

 

例えば、記者会見場での中継や録画映像を見て、首相が立ったまま記者会見を行い、記者をペンや手で促して指名するスタイルは、当時は斬新に映ったものです。

 

当時は、政治家は着席したままテーブル越しに記者会見を行い、司会進行役が記者を指名すると言った方法でした。

 

さらに、今では各国首脳も利用している「プロンプター」の使用もこの細川氏から始まったと言えるでしょう。

 

一方、今では行われなくなってしまいましたが、組閣時の記念撮影を歴代内閣で初めて首相官邸の中庭で行ったことは今も新しさを感じます。

 

こうした新スタイルは、細川氏の外見もダンディで甘いマスクのお陰だと政界では揶揄された時代でもありました。

 

以上、細川護熙氏の功績を中心に列挙しました。

 

中には「今では当たり前になりましたが」という文脈の通り、一時しのぎではない改革が行われたことは確かだと言えます。

 

(3) 細川護熙氏のバックボーン~家系を中心として~

次に、細川護熙氏の背景につて家系を中心に見てみたいと思います。

 

① 江戸時代以前

細川護熙氏を語る上で最も盛大に周囲が喧伝したのが、その華麗なる家系に関することであったかもしれません。

 

細川家は遡ること室町時代まで遡ることができ、足利氏の支流の流れを汲んでいるということです。

 

詳細は複雑になるので省略しますが、いずれにせよ数百年にわたってのリーダーシップをとる立場か、誉れ高い地位にいたかのいずれかであることを考えると、一種「華麗なる一族」と言えるのではないでしょうか。

 

当時もそうですが、これだけの名家の血筋の方が政治家をされていることは珍しく貴種と言えるでしょう。

②江戸時代

江戸時代には、九州熊本藩藩主を代々務め、その祖は細川幽斎(細川藤孝)になります。

 

オペラ歌劇などでその名が有名な「細川ガラシャ」も一族にいます。

 

多くの名家がそうであるように、他家より養子を迎えたりしてる関係上、余計に複雑さが増しますが、細川家は男子による相続が継承され続けています。いずれにせよ細川家は江戸時代を通じて熊本藩藩主であり続けたということになります。

 

③明治時代

廃藩置県により版籍奉還を行った結果、明治期の細川家は華族となり、侯爵の爵位を受け名誉貴族的な存在になりました。

 

今では使わなくなった爵位の順列で言うと「公・侯・伯・子・男」という順になっており、それぞれの漢字の下に「爵」が付きます。

 

最上級の公爵は京都に在住していた公家がそのまま公爵となりましたが、旧家で名家等は次の侯爵となったことからも細川家の家系が煌びやかだということがお分かりいただけるでしょう。

 

④昭和時代

細川護熙氏本人が生誕した時代ですが、父は細川護貞(もりさだ)氏でその妻の温子氏は公爵近衛文麿氏の娘となっています。冒頭部分にも記しましたが、父親の細川護貞氏が近衛文麿首相の政治秘書官を行った経歴を持たれます。

 

したがって、細川護熙氏本人は公爵であり元首相の近衛文麿氏の孫にあたることになります。

 

これだけだけでも家系的には素晴らしいものを感じますが、細川護熙氏の弟の細川忠煇氏は、旧五摂家筆頭の近衛家を相続し、国際赤十字赤新月社連盟会長、日本赤十字社社長などを務めています。

 

また、異母妹の細川明子氏は、表千家家元の十四世千宗左而妙斎に嫁いでいるなどその名家ぶりは華々しいと言えます。

 

以上のような背景がありますが、家系図を広くとれば続々と旧華族、財閥、政治家、実業家の名前が出てきます。ここではスペースの問題で、言及しませんがその膨大さは貴族社会が未だに生きているヨーロッパ社会に匹敵します。

 

(4) 細川護熙氏の後継者について

さて、いよいよ細川護熙氏の後継者に関してですが、氏には一人の息子さんと二人の娘さんがいます。

 

後継者としては息子さんがいますが、結論から言いますと、政治家としての後継者にはならないということです。

 

昭和47年生まれなので現在47歳になられており、近時陶芸家としての活動を中心に活動されていることから政治家への転身は全くないと言って良いでしょう。

 

また、二人の娘さんに関しては、次女の方はフランスの男性と国際結婚されており、料理研究家と言うタイトルで紹介されるケースが多いようです。

 

長女の方に関しては、情報があまり無く不明ですが、政治活動とは無縁の立ち位置にあることだけは確かです。

 

同じ政治家でも二世議員と言う言葉がありますが、細川家に限ってはその将来はないということになります。

 

ここで、驚くべき数字をご紹介しなければなりません。

 

二世議員、三世議員の数です。自由民主党では約半数の方々が世代を継いでいます。

 

244議席を自民党が持っていた時には、そのうち126名もの方が該当します。

 

民主党では176議席中48議席となっておりダントツに多くなっています。

 

理由は数々あるでしょうが、職業議員である日本の政治構造がこのような事態にさせているのかもしれません。

 

 

まとめ

今回、細川護熙元総理について特集しました。

 

戦後長く続いた自由民主党単独政治に対し、世論の後押しを受けて終焉させた功績は非常に大きかったように思います。

 

しかし、一方では時代の要請が彼をしてそうさせたという論評も少なくありません。

 

時代の要請が55年体制の終止符を打たせたのであって、細川氏の功績にするには功が少ないという論評です。

いずれにせよ、細川護熙氏は時代の転換期における中心人物であったことだけは確かです。

 

 

内閣総理大臣
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